夢見る頃を過ぎても

――「夢」と「働くこと」に関する、九つのライフストーリー・インタビュー

 高校生のころの自分は、「将来の夢」をどのように思い描いていたか、覚えていますか?

 そのころの夢がそのまま今の仕事になっている人、今まさに夢を実現するために奮闘している人、夢自体が少しずつ/あるいは大きく変化していった人、そのころは考えもしなかった仕事にたどり着いた人――「夢」と「現在」の関係は、人それぞれに違っていると思います。そして、「夢」と「現在」のあいだには、今の自分をつくる上で欠かすことのできない転機が、その人ごとにあったのではないでしょうか。

 人生のひとときを札幌南高校で学び、現在はそれぞれ異なる場所で活躍する9人の、「夢」と「働くこと」に関する思いの現在地をインタビューしました。

インタビュアー・文 前田昌彦


多くの方々との出会いがきっかけで、地域創生を目的とした酒蔵の建築に参画

大島 有美さん(旧姓:南里)

一級建築士/「アトリエオンド一級建築士事務所」代表

一級建築士として働く大島有美さんは、14年前に起業して自らの建築設計事務所の代表を務め、住宅設計から店舗、事務系の空間などを幅広く設計してきた。

大島さんの仕事歴の中で大きな特徴となっているのは、2017年4月に竣工した北海道上川町の上川大雪酒造「緑丘蔵」の建築設計を行ったことだ。現在進行中の案件を含め、4件もの酒造の建築設計にかかわっている。

自身のキャリアを振り返って、「多くの方々との出会いがあったから」と大島さんは総括する。10年ほど前のこと、当時まだ東京で建築事務所を立ち上げたばかりだった大島さんは、フレンチの巨匠・三國清三氏がオーナーを務める北海道上川町のレストランの内装設計の仕事を請けた。このときの出会いがきっかけとなり、酒蔵建築に至るその後の縁につながっていった。

「三國さんや、上川大雪酒造で杜氏を務めることになる方も含めて、北海道出身という共通点があった縁もあり、“日本酒の製造を休止していた三重県の酒造会社を、北海道上川町に移設する”という前代未聞のプロジェクトに、建築士として参画することになりました。でも、酒蔵という建物にどんな機能が必要かなんて、当然何一つ知りません。各地の酒蔵を見学させてもらい、日本各地の酒蔵の協同組合や杜氏の方にヒアリングを重ねて、現場の意見を聞きつつ、学びながら設計を進めました」

設計した酒蔵には、効率的な作業動線のみならず、建物2階の外側に見学者用のデッキを設けて、日本酒造りを見ることができるルートも整備した。酒蔵がランドマークとなり、日本酒を愛好する人が地域に集まるようになった。

「そもそも、酒蔵設立プロジェクトの目標は地域創生でした。冬の上川町に賑わいを生むために、北海道産のお米と天然水を原料として生産される地酒を造ろうと考えたのです。レストランの内装設計が、上川町で町興しに取り組む地元の方、酒造の杜氏の方――その後のいくつもの出会いにつながりました」

そこで過ごす人たちのため、地域の良さを捉えて、価値を高めるような場所をつくりたい

今や大島さんは、酒蔵設計のちょっとしたスペシャリストとして、各地の案件にかかわっている。しかし、建築士という仕事は、学生時代から思い描いた夢というわけではなかった。

「高校時代は、農学部への進学を志望していました。浪人時代に、大学にはどんな学部があるのかを初めて調べて、建築学科の存在を認識したというくらいです(笑)。北海道大学の建築学科では、都市計画の講座が印象に残っています。建物を建てることで人の流れがどう変わって、街づくりが行われていくのか――という問題意識は、思えば、今行っている酒蔵建築のプロジェクトにも結び付いているのかもしれません」

大学院卒業後は、東京の再開発ディベロッパーに就職した。そこで建築士試験を受験し、一級建築士の資格を取得。ただ、大きな会社組織で携わった都市開発の仕事は、業務の対象や規模が大きく、もっと人と直接触れ合える仕事がしたいという思いがあった。

自らの設計事務所を立ち上げることとなったのは、家を建てようと考えている知人が設計事務所を探しているという話を聞き、設計案を提案してみた――という経緯だった。そして、30代の終わるころ、故郷である北海道に本拠地を移す判断をする。同じく札幌市に実家のあるご主人ともども、将来的には北海道に戻って地域に貢献したいとの思いを、共通して持っていたためだ。

「依頼してくれたお客さんの希望をどう実現するかを考え続けてきた結果、大学時代に学んだ街づくりというテーマに、いつの間にか再び関わっていました。そこで過ごす人たちのために、地域の良さを捉えて、価値を高めるような場所をつくりたいと考えています」


幼少期から思い描いてきた “スポーツに関わる全てをサポートするための基地”を実現

伊藤 雄人さん

医師(スポーツ整形)、スポキチクリニック院長

伊藤雄人さんが、スポーツドクターになりたいという夢を描いたのは、小学生のころにさかのぼる。高校、大学と進学するにつれ、体育館やトレーニングジムも併設した総合的なスポーツクリニックを開設したい――と夢を育てていった。伊藤さん自身、自ら身体を動かすことが好きなスポーツ愛好家だった。合唱部に所属していた高校時代を除いて、小学校から大学まで野球部で汗を流し続けた。

「今思えば、高校時代に野球部に入らなかったことは、どこかで心残りとしてありました。自分が高校3年生のときには、野球部が全道大会の決勝に進んだのですが、喜ばしい一方で、グラウンドに自分がいないことに悲しみや悔しさの混じった感情も持っていたことを覚えています。今、スポーツドクターとしてさまざまな活動をしていく中でも、若い野球選手のサポートは大きな柱の一つになっています。高校時代の思いのために逆に野球やスポーツに対する思いを募らせたことが、現在もこだわって仕事をしている原動力になっている気がします」

スポーツ整形を専門とする “スポキチクリニック”は、まるでスポーツジムのような、病院らしからぬ構えの外観を持つ。実際にフィットネスジム、リハビリ施設、整骨院なども併設されている。医療従事者に交じって、トレーニングウェアに身を包んだスタッフも働く、スポーツ愛好者を総合的にサポートするというコンセプトの病院だ。

「このクリニックには、普通の病院にはあまりいないようなタイプのスタッフが多くいます。“スポーツに関わる全てをサポートするための基地”ですから、当然自分一人ではすべてをまかないきれませんので、各分野の専門人材を育成して、少しずつ充実させていきます。こうした多様な個性をまとめるに当たって、学生時代の経験が生きているかもしれません。中学校や大学での野球部、高校での合唱部と、ずっと部長を務めてきましたから。そこで気づきになったことは、リーダーが出しゃばりすぎるとチームはうまくいかないということです。クリニックの中では、スタッフから意見を言いやすい上司ではないかな、と思います(笑)」

目指しているのは現場目線の支援。病院の都合で、選手の思いを踏みにじりたくない

自身のキャリアについて、「人との縁に恵まれてきました。出会うべき人に、出会うべき時に出会ってきたなって」と伊藤さんは振り返る。旭川医科大学時代、野球部でプレーしていた伊藤さんは競技で肩を痛めて、手術に踏み切った。術後には長いリハビリも経験した。そのときのリハビリの先生が、人生の中で一番の恩人、恩師だったという。

「体の動かし方とはどういうものか、その先生に教えてもらいました。手術自体よりも、むしろリハビリによって“治った”と思えたのですが、これはケガの治療を経験した多くのスポーツ選手に共通する思いかもしれません」

この“恩師”とは、勤務医として働いていた頃に、参加したリハビリの勉強会で再会を果たす。その縁が縁を読んで、東京で開催される、野球を専門とした医療従事者の定期勉強会に参加するようになった。

「現場でスポーツがする人がいてこそのスポーツ医学だと考え、大会や試合、それに備えたトレーニングを重視した治療を掲げています。スポーツ選手にとって医者という存在は、怪我したせいで会わざるを得なくなったわけですから、どうしてもマイナスの気持ちを伴います。自分自身も、一人のスポーツ少年としてお医者さんは嫌いでしたから(笑)。自分が目指しているのは、現場目線で支援していくことです。病院側の都合で、選手の思いを踏みにじりたくない――それは今後もぶらさないでいきます。クリニックとして、スポーツチームをトータルでサポートしたい――というのが現在の大きな夢ですね」


栽培技術や経営知識など何も持っていなかったが、農家になりたいというやる気があった

畑山 貴宏さん

農家/「畑山農場」経営

畑山貴宏さんは、山梨県の八ヶ岳南麓にある北杜市で、レタスや小松菜などの葉物野菜、カブ、大根、チェリートマトなど約100品種の野菜を、農薬化学肥料を使用せずに育てる「畑山農場」を経営している。農薬・化学肥料は使わず、植物性の肥料・堆肥で栽培した野菜を、個人宅配や都内小売店を通して販売を行う一方で、農業を通じた地域交流の促進や、加工食品などにも挑戦している。

「高校時代には、今の自分の姿を想像できませんでしたね。ただ、生まれ育った北海道を離れて、ほかの土地で暮らしてみたいという気持ちはありました。普通に就職活動をして、都会でサラリーマンとして生計を立てる将来は思い描けませんでした」

畑山さんは、札幌南高校を卒業後、筑波大学の生命環境学群 地球学類に入学し、環境問題のサークルで活動する学生だった。転機になったのは、大学3年生の時にはじめた有機農業のアルバイト。大学の先輩がいたことがきっかけで始めたのが、1日3時間ほどの農作業を体験する中で、有機農法で育てた野菜の美味しさと仕事の面白さに、いつしか夢中になっていた。

しかし一方で、畑山さんは、親族が農業を営んでいたわけでもない。自分がすぐに農家になるのは難しい――と、当時は思っていた。

「学部を卒業した後は大学院に進学したのですが、自然の中で暮らすことへの関心は高まっていきました。ただ、自然の中で暮らす生き方を実践していくためには、何か手に職を付けなければいけません。大豆を使った加工品に興味を持って、お豆腐屋さんで1年間ほど修行したこともありました」

そんな中で、山梨県八ヶ岳山麓の北杜市で、未経験でも農地を貸してくれるという、農業振興の取り組みを行っていることを知った。土地柄、清里や小渕沢などのリゾート地も近く、移住者が多い地域だったことも、背中を押した。ここで経験を積み、26歳にして北杜市で自らの農場を開いた。

「農業を始めて、自分の人生の中で大切にしたいものが見つかった、という確かな手ごたえがありました。もちろん、最初からうまくいったわけではありませんでした。栽培の技術や経営に関する知識、社会人としての経験、資金などすべてを持っておらず、農家になりたいというやる気があっただけでしたから。農業という仕事は、毎年少しずつ天候も違いますし、毎年少しずつ違う失敗があります。さらに言えば、失敗を挽回するチャンスは1年に1回しかありません。でも、この失敗を糧にステップアップしていけば、ちゃんと食べていくことができる――ということは経験で分かってきました。農業を始めて20年近くが経ちますが、生計を立てるために毎年試行錯誤しながら、少しずつ前進しているところです」

農業では、自分が日々工夫を重ねたことが、結果になって返ってくる

現在は、農場での農業体験イベントや、一般の方に栽培方法を指導する、家庭菜園講座等も積極的に行う。今まで積み重ねてきた野菜栽培の技術を生かして、楽しい自家菜園生活のサポートをしたいと考えている。近隣地域で農家を営む同世代の横のつながりで、野菜の共同通販なども行っている。「SDGs」といったテーマについて、企業の人と意見交換する場面もある。

「やりがいは十分過ぎるほどにありますが、仕事中はまだ“心豊かに暮らしている”と感じる余裕を持てていないのが正直なところです。もう少し、時間の余裕が生まれるまで、生産性を改善していきたいといつも考えています。ただ、農業では、自分が日々工夫を重ねたことが、結果になって返ってきます。自分の場合は大学院まで勉強してきましたが、農業ではいろいろなキャリアの人がいます。それぞれの人がそれぞれの個性を発揮しながら、成り立っている仕事ではないかと思います」


“近くに困っている人がいたら助けたい”という考えは、高校生のころから持っていた

藤岡 かおりさん(旧姓:向井)

看護師、大学病院小児病棟師長(写真左から3人目)

順天堂大学の附属病院で看護師として働き、現在は小児病棟師長として後輩看護師をマネジメントする立場として“現場と経営陣をつなぐパイプ役”の役割を担っている藤岡かおりさん。しかし、看護師という仕事に、幼少期からあこがれを持っていた――というわけではない。

「両親が医療系の仕事をしていたこともあって、身近に感じられる仕事の一つではありました。“これからは女性も働き続ける時代だ”という世の流れが明確になってきて、何か資格を持った方がいいとも言われていたように思います。ただ、高校時代にも、将来の目標が明確にあったわけではありませんでしたね。ただ、“近くに困っている人がいたら助けたい”という漠然とした考えは、当時からずっと持っていました。看護学科を選んだことも、自分の成績を考慮しながら、現実的な進路として考えたものです。ただ、そうやってはじめた看護師の仕事なのに、もう20年以上も働き続けているのですから、自分には“ハマった”のでしょうね」

北海道大学医療技術短期大学部の看護学科(現在の北海道大学医学部保健学科)を卒業後、就職で上京した藤岡さんは順天堂大学の附属病院に入職し、それ以来ずっと大学病院で看護師としてのキャリアを歩んできた。

「新人時代はとにかく大変でした。強烈な“リアリティ・ショック”の洗礼を受けて、すっかり仕事に怖気づいていましたね。そもそも、大学病院では重症患者の方が多いですから、自分が担当していた患者さんが亡くなられることもありますし、当時は“果たして私に患者さんを助けることなんてできるのか”と思っていました。新人の3年間くらいは、毎朝悪夢に襲われて目覚めるような毎日でしたね」

自分自身が患者の立場になり、違う視点から病院の仕事を見ることができた

看護師キャリアの中ではいくつもの転機があった。最初の転機は、入職して5年がたったころ、ジャーナリスト/ライターというまったく仕事の領域が異なる旦那さんと結婚をしたこと。生まれ育ってきたカルチャーが全く異なる相手との生活は、人間としての幅を確実に広げてくれた。そして、男の子、女の子の二人の子供に恵まれたことも、大きな転機だった。子育ては「まるで修行のような日々」だったと振り返るが、無条件で自分を必要としてくれる存在を守って、育てていくことの充実感は、ほかに代えがたいものだった。下の子供の育児休業が明けると、新たに小児病棟で勤務することとなった、家族の立場、親としての気持ちを共感できることは、大きな強みになったという。

そして、看護師としてのキャリアも20年間近くになったころ、第3の転機が訪れた。藤岡さんは、20代のころに悪性の腫瘍を患い、手術で切除していた。それが、このタイミングで再発したのだ。

「人生観を大きく変えてしまうような出来事でした。幸い、自分が働く大学病院で手術することができ、術後2年になりますがその後の問題はありません。一方で、自分自身が患者の立場になり、違う視点から病院の仕事を見ることができたことはとても大きかったと思います。私がつらそうにしている様子を見た後輩看護師が、カイロプラティックの施術をしてくれた時には、こういう気遣いがどれだけ患者を救ってくれるのか――と改めて実感しました。これからどんなにAIが進化していっても置き換えることができない、人間の看護師にしかできない役割だと思います」

現在は、大学病院内の小児・周産期センター開設に向けて多忙な毎日を送る藤岡さん。建築図面を見て意見交換するなど、これまでのキャリアでは経験することのなかった仕事ばかりだが、「病気を克服して、不思議と湧いてきたネルギー」で日々奮闘している。


お客様に心から満足してもらえるように、商品について伝えたい“思い”をブログで発信

小林 美奈子さん

企業ユニフォーム販売会社「サカエ福島産業株式会社」

企業ユニフォームを取り扱う会社を夫婦2人で取り回している小林美奈子さん。ウェブサイトを通じて、全国の企業に仕事着やユニフォームを販売している。ただし、小林さんの会社の営業方針は、他のインターネット物販会社とは少し異なっている点がある。

「サイト上のカートに商品を入れてもらって、サイトの中でやり取りが完結するような、手離れのいい“売っておしまい”的な商売ではなく、お客さまにはまずお問い合わせしていただくようお呼び掛けしています。お客様とコミュニケーションをとりながら、業務中に困っていることを解決し、社員の方の意欲が向上させるようなユニフォームを、商品の中から探しだしてご提案する――という方針です」

10年ほど前に、小林さんのご主人が実家の経営する会社を引き継いだのを機に、小林さん自身も業務に深くかかわるようになった。事業方針も転換して、インターネット通販に積極的に乗り出した。商品ラインナップも、それまでは技術・開発職向けの作業着の取り扱いが多かったのを見直して、スーツに代わるような営業用ユニフォームを中心に取り扱うようになった。最初の数年間は思うように営業成果を出せなかったが、当時の風潮になっていた、“モノをいかに安く売るか”という路線で勝負することには賛成できなかった。

「大規模に展開しているB to C(個人客向けの営業形態)企業のような低価格競争はしたくなかったですし、会社の規模を考えれば“するべきではない”とも考えました。それよりも、お客様それぞれのニーズに向き合って、心から満足してもらえるような商売をしていきたいな、と考えたんです。そこで、ブログを通じて、商品について伝えたい“思い”を発信していきました。そうした記事を見て、問い合わせをいただいたお客様に話を聞くと、世の中にあふれている仕事着やユニフォームに満足しているわけではないことが分かってきたのです」

お客様からいただいた意見にも積極的に応対して、血の通ったコミュニケーションを心がけた結果、これまでにやり取りできなかった地域、業種のお客様とつながりが生まれ、商談につながっていった。小林さんが担当する仕事の範囲も、商品選定、商品撮影(たまに着用モデルも担当)、ウェブページ作成、お客様対応、商品発送、経理業務……などなど、会社運営に関するあらゆる領域を網羅するようになった。

まず自ら使ってみて、自分が実感できた良さを“押しつけがましい”くらいにお勧めする

学生時代の夢は旅行会社で働くことだった。オーストラリアに留学をした際には、現地の学校に「観光学科」があり、飛行機の運行計画や観光事業経営などを学んだ。大学卒業後に晴れて旅行代理店に入社し、海外旅行事業部で働き始める。出入国ビザ発行の手配など、複雑な書類と格闘する、多忙な日々を過ごしていた。

――こうした、学生時代に考えていた夢や前職での仕事は、今の仕事と直接結びついていないかもしれないが、“とにかくお客様を楽しませて満足してもらうこと、そして自分が良いと感じるモノ・コトを全力でお勧めすること”は、今の仕事に共通していると思っている。

「企業ユニフォームでも、いい商品が出たらまず自ら使ってみて、そこで自分が実感できた良さを“押しつけがましい”くらいにお勧めしています(笑)。もちろん、インターネットは活用するのですが、顔が見える安心できる会社であることを心がけています。もっと多くの会社、職場にマッチする制服をご提供して喜んでもらいたいですし、困ったときは当社に頼んでもらえればなんとかなるような、担当者の方の“最後の砦”になりたいと思います。目指す接客の理想像は、“昔ながらの商店街の八百屋さん・魚屋さん”ですね」


学校がなかった地域に学校を建て、子どもたちが学び始めると、子どもたちは確実に変わっていきます

村松 良介さん

国際NGO「プラン・インターナショナル」職員

村松良介さんが働く国際NGOプラン・インターナショナルは、子どもの権利を推進し、貧困や差別のない社会を実現するために世界70カ国以上で活動する団体だ。村松さん自身は現在、アフリカ南部のジンバブエにおける「暴力のない中学校づくり」プロジェクトを担当している。子どもをしつける方法として、体罰がいまだに容認されている現地の現状を変えるために、「褒めて伸ばす指導法」の普及に向けた教師の研修やコミュニティへの啓発を行っているという。

「前職のNGOで、南スーダンの難民キャンプの人道支援に当たっていた際に、その地域に学校を建てることで周囲の環境が変わっていく様を目の当たりにしました。緊急支援とは、第一に危機の中にある命を救うものですが、緊急期の教育も“子どもたちに日常を取り戻す”という意味で、非常に重要なものです。人道支援の根本的なゴールは“難民が発生しない国”になることであり、そうした国になることの基本には、その国の人々が適切な教育を受ける必要があると考えています。それまで学校がなかった地域に学校を建て、子どもたちが学び始めると、子どもたちの表情は一気に明るくなりました。この活動で、教育の重要性を再認識しましたね」

2019年はジンバブエに赴任して活動の現地統括を務めたが、2020年3月、折からのコロナ禍の中で日本に帰国し、現地人スタッフと遠隔で連携しながら働いている。現在は、活動に賛同して寄付くださった支援者への活動レポートを書いたり、管轄省庁である外務省に提出するための報告書を作成するなど、デスクワークが多い。アフリカなど途上国の事情を、日本に住む人にもっと身近に感じてもらう目的で、ネットを通じた発信活動も積極的に行っている。

「教師用のツールキットを開発したり、保護者への啓発を行ったり、現地の学校関係者を対象とした研修などの活動について、プロジェクト全体の進捗管理を行うことが主な仕事になります。その点は、現地で自ら直接手を動かして支援に当たるJICA(国際協力機構)の青年海外協力隊の仕事と少し違う点ですね」

大学時代のスタディツアーで、支援の現場を目の当たりにした体験は、大きな転機だった

「自分が現在のような仕事を選んだ背景は、大学時代に経験したタイでのNGOスタディツアー(NGOの活動を視察したり、ボランティア活動などを行う旅行)で、支援を受けて前向きになっていく現地の方の姿を目の当たりにする強烈な体験をしたことが大きな転機だったと思います」

北海道大学を卒業した村松さんは、イギリスの大学院で人権を学んだ後、国際NGO職員としてのキャリアを歩み始めた。いったん教職の道を志し、福岡県で2年間、教員として働いていたこともある。しかしその後は再び、国際NGOの職員として、教育を通じた子どもの権利実現に取り組んできた。

「子どもの頃に、生涯をかけて貧困や病に苦しむ人々の救済に携わったマザー・テレサの伝記を読んで、そうした生き方に憧れていた……ということはありました。とはいえ、国際的なボランティア活動をしたい――というように、具体的な夢を持っていたわけではありません。そもそも、高校生の時は英語があまりできませんでしたし、将来の夢も特に持っていなかったと思います。海外の紛争地域なんて、遥か遠くのことだという印象でしたから」

ただ、当時から、人の役に立ちたいという、漠然とした思いだけはずっと持ってきた。海外への憧れ、環境問題や社会問題への関心、厳しい状況を「何かしなければ」という思い。こうした、現在の村松さんを構成するいろいろな要素は、生徒の多様性を許容する札幌南高校という環境で育まれてきたのかもしれない――当時を振り返ってそう話しているのが印象的だった。


ゴスペル音楽は“生き方の基盤”。音楽を通じて愛あふれるコミュニティをつくってきた

横尾 美穂さん

ゴスペルシンガー、ボイストレーナー、高校英語教師

90年代後半に、札幌では初めての市民が参加できるゴスペルのクワイア(聖歌隊)「ア・ミラクル・イン・サッポロ」を25歳で立ち上げた横尾美穂さん。シンガーソングライターやボイストレーナーとして長年にわたって音楽活動を続ける一方で、現在は英語教師として高校で教鞭も執っている。

英語と「表現すること」が、横尾さんの人生にとって二つの大きなテーマだった。きっかけは、幼少期にアメリカの活動家、マーティン・ルーサー・キングJr.牧師のエピソードに出会い、心酔したことだ。アメリカへの憧れと、アメリカにはびこる人種問題への関心は、その頃から持ち続けてきた。

小学生時代に国際交流で英語をうまく話せなかったという悔しさをバネにして英語を学んだ結果、中学3年生の時には英語弁論大会で優勝し、アメリカ・オレゴン州ポートランド市に親善使節として3週間留学をした。札幌南高校時代には、周囲を巻き込みながら、学校祭では映画を製作し、後夜祭ではバンドでステージに立った。

「自由な校風の中で、才能のある仲間と何かを作り上げることを全力で楽しんでいました。卒業後に進学した藤女子大学で力を入れたのは、ESSと英語劇です。英語で演じ、歌うミュージカル上演を企画して、1000人収容の大きなホールで2日間の公演を成功させました。このときは、イベント制作からスポンサー集め、舞台のプロデュースまですべてやり切りましたね」

大学卒業後に英語教師となるために留学した米オレゴン大学で、運命の出会いを果たす。

「アメリカの大学では、例えば演劇のクラスではアクティングメソッドといった専門的なことも学べます。環境問題や環境教育も、当時からすでに重要なトピックでした。大学構内には立派なコンサートホール、演劇のホールもあります。そこで出会ったのがゴスペルです。魂がゆすぶらされるような経験でした。すぐに夢中になって歌い始め、私自身もクリスチャンとしての信仰を持つようになりました。それ以降、ゴスペル音楽は私にとって生き方の基盤になっています。ゴスペルのメッセージに根ざして仲間たちと交流し、音楽を通じた愛あふれるコミュニティづくりをずっと続けてきました」

自分の経験を若い世代に伝え、さまざまな花を咲かせることを応援したい

留学からの帰国後、英語教師を目指して勉強をしながら、採用募集を行っている学校を探す日々の中で、北海道環境財団という組織が新設されたことを知る。オレゴン大学で環境問題を学んだ経験から応募してみたところ、縁があって職員として働くことになった。地域の環境ワークショップを開催し、国際会議にも随行、環境家計簿を広めるための取り組みなど、仕事は多岐にわたった。

同時にこの時期に、横尾さんにとっての“ライフワーク”である、ゴスペル音楽を伝える活動も開始した。市民ゴスペルクワイア「ア・ミラクル・イン・サッポロ」を立ち上げる一方、シンガーソングライターとしての表現活動も続け、ゴスペルのミニアルバムもリリースした。子育てと仕事の両立など、心を悩ませた時期もあった。そんな中で、もう一つのライフワークを始めている。

「辛いことがあったり、思い通りにいかないような日々でも、一緒に空を仰いで歌い、生きている喜びと感謝を音楽で表現していきたいと思います。娘が小学校4年生のときに、世の中に何かを還元したい、何かを残したいという思いから、北広島市で歌のワークショップを始めました。最初は40人程度の小規模な集まりでしたが、参加者は3世代にわたり、初期の頃に参加してくれた子は、いまでは立派な社会人です。私自身が得てきた経験や技術を若い世代に伝えて、彼らがさまざまな花を咲かせるように応援することが、人生の大きなテーマとなっています」


子供のころからずっと、“物語をつくる仕事に就きたい”と考えてきた

上野 友之さん

脚本家・演出家/「劇団競泳水着」主宰

2003年、大学4年生の上野友之さんは、まったくの“演劇未経験”であったにも関わらず、唐突に劇団の旗揚げをした。その名も「劇団競泳水着」。恋愛群像劇を題材として、さまざまな角度から人間関係を描く上野さんの作風は、小劇場演劇シーンで独自の存在感を放ってきた。

「演劇の世界では、学生時代から既存の劇団や演劇サークルに入って、小劇場に通って舞台を熱心に見てきた――という人が多いですから、演劇サークルや演劇学部に入っていたわけでもない自分は、その点で異色なのかもしれませんね。そもそも、子供の頃から演劇に興味を持っていたわけではありません。札幌南高校で、演劇部が活動していたかどうかも知らなかったくらいですから(……ごめんなさい!)。ただ、子供のころから、“物語をつくる仕事に就きたい”とはずっと考えてきました」

学生時代に夢中になっていたのは、テレビドラマや映画だった。上野さんが10代のころ、「古畑任三郎」や「池袋ウエストゲートパーク」などの新しい感性で描かれたドラマに注目が集まり、三谷幸喜や宮藤官九郎といった新たなスター脚本家が、華々しく活躍しはじめていた。小説やマンガではなく、脚本という形で物語を生み出すことができるのではないか……そう思うようになった。

とはいえ、まっすぐに演劇の道を歩き出したわけではない。早稲田大学に入学後、なぜかオーケストラのサークルに入り、ほどなく退部。大学2、3年生のころには暇を持て余して、幼少期からの夢にもう一度向き合った結果、社会人向けの脚本家養成学校で学び始めた。

「もともとはテレビドラマの脚本を書きたいと考えていたのですが、 “そういえば演劇というメディアがあるのではないか”ということに思い至りました。考えてみれば、三谷さんや宮藤さんも劇団出身でしたし。そこで、大学の稽古場を使うために学内で演劇サークルを立ち上げて、強引に人を集めて旗揚げ公演を開催しました」

この演劇サークルが、現在まで続く「劇団競泳水着」である。テレビドラマからの影響を色濃くにじませる上野さんの脚本は、確かな支持を集めてきた。

「旗揚げ当時は、脚本を書く傍らで、自らも舞台に立っていました。自ら演技をするのは楽しい部分もありましたが、自分は俳優をずっと続けていくわけではない、という考えがその時からあったように思います」

劇団を主宰する立場では見えていなかったスタッフの思いを、“修業期間”に思い知った

2017年4月、14年間にわたって継続してきた劇団の活動をいったん休止し、知人の映像制作会社に入社した上野さんは、35歳にしてはじめて会社員として働き始めた。会社という組織で、プロデューサーとしての役割を自分に叩き込みたいと考える一方で、「もし普通に就職していたら、自分はどれくらい通用したのか」知りたかった――というひそかな動機もあった。

「海外の映画やドラマでは、脚本家が“ショーランナー”として製作総指揮に就くケースが多く見られます。脚本だけでなく、仕事の範囲をプロデュースにも広げていくためには、仕事を発注する側が何を考えていて、製作費はどういった仕組みで予算化されているのか、知る必要がありました。一方で、現場での雑用仕事というのはこんなに大量あったのかと思い知りましたね」

そして2020年の春、3年間の“修行期間”を経て、演劇活動を再始動させた。

「修業期間で学んだことはたくさんあります。コロナ禍の中で舞台製作者はジャンルを問わず大変ですが、劇団を主宰する立場では見えていなかった、スタッフの思いも知りました。人生ではじめての、会社組織での“サラリーマン”生活は大きな刺激になりました。表から見えないところでどれだけ多くの人が汗水を流しているのか、俯瞰して見られるようになったことは、きっと今後の役に立つと思います」


商品と社会、企業とメディア、ブランドとコミュニティの関係性をデザインする

大貫 元彦さん

㈱電通コミュニケーション・プランナー

広告代理店におけるクリエイティブ職というと、グラフィックデザイナーやコピーライターのような職業を思い浮かべるかもしれない。しかし、マーケティング戦略の立案からクリエイティブ企画、商品開発、PRなどを統合して担当する「コミュニケーション・プランニング」など、新たな領域の仕事が生まれてきている。

大貫元彦さんが広告業界に足を踏み入れたのは14年前のこと。業界大手の1社であるADK(当時の社名はアサツー ディ・ケイ)に新卒入社した。

「学生時代は、“自分はどんな職業に就きたいのか”ということすら考えていませんでした。就職活動をしなければならなくなって、業界も業種も違ういろいろな会社を、フラットに見ました。その中で、広告という仕事を初めて意識するようになりました」

ADK入社後、営業職として働く日々の中で、競合企業である電通で活躍するプランナーのメッセージが、大貫さんの心を動かした。

「広告ビジネスの本質とは、クライアント企業の抱える課題の本質を見極めて、解決に向けたサポートをすることにあるのではないか――そんな認識を持たせてくれる、自分にとってとても重要なメッセージでした。もちろん、ADKはとてもいい会社で感謝しかありませんが、こういうメッセージを発することができる環境で働きたい、この人と一緒に働きたい、という思いが強まっていきました」

第二新卒として電通の採用試験に合格した大貫さんはコミュニケーション・プランナーとして、クライアントへの出向等も経験しながら、キャリアを積み重ねてきた。

「電通という会社の中は、7000人分のユニークな脳みそを擁する、良い意味で極めてカオスな環境でした。日々、大きな刺激を受けながら働いています。商品と社会、企業とメディア、ブランドとコミュニティ…それぞれの関係性をどうデザインするかをテーマに、コピーライティングや商品開発、アプリのUI開発、プロモーションのプランニングまで幅広く手掛けています」

“相手の気持ちの変化の触媒になること”に興味を持ち続けてきた

大貫さんは、小学校から高校までずっとサッカーを続けてきた。最初はフォワードとしてゴール前での駆け引きを得意にしていたが、小学生時代にゴールキーパーにコンバートされると、相手フォワードの考えを読むことに夢中になった。札幌南高校のサッカー部時代は、チームの中心であるボランチ(守備的ミッドフィルダー)として、相手チームと味方チームが今何を考え、どういう意識で動いているのかを常に考えながらプレーしていた。

「人の気持ちはどのように変わっていくのか――という興味は、小さな頃から持っていたように思います。高校卒業後に、予備校に籍を置きながら札幌のアパレルショップで店員として働いていた時期がありました。自分が話しかけた言葉によって、お客さんの考えが少しずつ変わっていき、商品を購入することで新しい体験をしてもらうことにつながる――というのは、非常に興味深いものでした。自分の行動によって、相手の考えが変わっていく、そんな“相手の気持ちの変化の触媒になること”が、とても面白かったんですね。その視点は、今の仕事をしていくうえでもとても役に立っている気がします。」

大貫さんの中で一貫して存在しているのは、「仕事を通じて、いろんな人の“夢中”を創っていく」というテーマだ。そのためには、毎日の仕事の中でも趣味の登山や読書、山スキーや音楽などを通じて多くのインプットを続けて、クライアント企業が寄せてくれる要望の背後にある「根本的な課題とは何か」に寄り添い続けることが大切だと考えている。